コンピュータが仕事を奪う

読んでいて面白いな、とおもったところを抜き書き。

人間には、ほぼ例外なく、帰納と演繹という2つの問題解決能力が備わっています。帰納は「ふつう……となる」「〜のようになる」という経験やデータに基づく問題解決の方法です。一方、演繹は「〜だから、……となる」というタイプの、根拠と論理に基づく問題解決のありかたです。
この2つの能力は、子どもの成長の過程で、歩みをそろえて発達するとは限りません。帰納が先にぐんと発達する子もいれば、演繹が先に発達する子もいます。
帰納を発達させるには、帰納のもととなるデータ(経験)のほかに、自分以外の人の経験を収集するための社会観察眼やコミュニケーション能力が必要となります。また、データベースの容量や、データベースからスムーズにデータを取り出す仕組みも発達しなければなりません。
一方、論理による演繹を行うには、データベースから取り出す(思い出す)活動に比べて、圧倒的にCPUに負荷のかかる論理推論や文の意味理解などを行わなければなりません。演繹は帰納に比べて、(少なくともコンピュータにおいては)エネルギーをより多く消費する活動なのです。なので、帰納と演繹の両方の能力があった場合、帰納で問題解決を図ろうとするのは、エネルギー効率上、当然のことでしょう。しかし、なんらかの理由によって帰納的な推論が苦手な人々は、エネルギー効率を無視してもCPUを動かして考えなければなりません。暗記や帰納があまりにも苦手であったが、CPU速度は早かったために、多くの問題を(暗記やパターン認識をせずに)日常的に演繹によって解決する人々というのが、数学者の典型的な思考パターンなのかもしれません。
脳を活性化しないドリル, P.200

沈思黙考しなくても、データベースから答えが得られるのであれば、脳はエネルギー節約のためにも検索に走るに違いありません。「形式と意味の間を行き来して考えるような脳」に鍛え上げるには、それは逆効果になることでしょう。なぜなら、人間は経験による帰納を経ずして純粋に演繹することは決してできないからです。ここが非常に難しいところで、計算ばかりやっていたからといって計算機を発明できる人になれるわけではない一方、ろくに計算もせずに計算機を発明することも、また、できないのです。それが帰納を経ずして演繹は手に入らないという意味です。
特に、自ら体験することを通じて帰納を獲得する段階にある年齢の子どもたちにとっては、動画による受動的な学び、表計算ソフトに頼った計算やデータ処理は帰納の獲得を阻害するのではないかと私は思います。また、検索によってすぐに答えを探す癖がつくことも、常時ネットのコミュニケーションにつながった状態にあることも、集中を保って自ら考えることを阻害することでしょう。
コンピュータが思考の芽をつむ, P.202

なぜ日本の教育はここまで暗記と計算に力を注ぐようになったのでしょうか。多くの人が、これが受験せんその結果であると誤解していますが、そうではありません。明治時代から続く日本の教育の伝統なのです。先日、明治の算数の教本を見る機会があり、そのことを改めて実感させられました。これは、日本においては、有史以来、科学技術は常に外部からやってくるものであったことに無関係ではありません。日本人は科学技術に強い、というような気持ちを私たちは持っていますが、残念ながら世界の科学の歴史を決定づけるような真に革新的な技術を日本が開発した例はほとんど見当たりません。羅針盤蒸気機関も電気もコンピュータも、それ以前に農業すらも、みな、海外から日本に入ってきた技術です。そういうわけで、私たちは、残念なことに真に革新的な科学技術が生まれる瞬間に立ち会った経験がそもそもありません。だからこそ、なんのために数学が生まれたのか、なぜイノベーションに数学が不可欠なのかを、いつまでも認識できないのかもしれませんね。
外部から科学技術がやってくるとき、重要なのは、最速で追いつく力です。そのために何より必要だったのが外国語で書かれた文献を読み解く力、かつては中国語力であり、やがてドイツ語力となって、現在は英語力とネット検索力だというわけです。次に重要なのは、外国で開発された科学技術を覚えて実際に使うための能力ですから、そこで暗記力と計算力が重視されることになります。あとは、それに付加価値をつける能力があれば十分だったのです。
暗記と計算で追いついた日本, P.206

敬愛する小学校教師の有田八州穂さんに、「数学文化」という雑誌で、かつてインタビューをしたことがあります。(中略)
「子どもとの関係って生身の人間のぶつかりあいなんですよね。山で猿に出会ったときに、ひるむとまずい、ってのがあるでしょう。あれに似ている。最初に目の力で負けたらだめですね。そこは真剣勝負です。そればかりはノウハウではどうしようもないところですね。それから、僕は、絶対に大声は出さないんです。そして、たたかないし、立たせない。割合、小さな低い声で話します。それは、わざとそうしている。そして、1回しか言わない。」
1回しか言わないと、「忘れた」とか「聞いてなかった」という子が出るのでは、と尋ねると、有田さんはこう答えました。
「それは、後で聞けばいいや、って思うから、そのとき聞かないのです。なので、僕のクラスでは、聞いていなかったら、困ることになる、ということを徹底的に理解させる。国語の授業で、僕はよく文章の朗読をします。教科書を出させて、僕が全文を朗読し、子どもたちは教科書の上を目で追っていく。読み終わったら、教科書を閉じさせる。そして、原稿用紙に、そこに何が書いてあったか、書かせます。集中力のない子は、最初の部分しか書けないことが多い。そのときに、『全部覚えようとしても、長い文章を覚えることはできない。どんな情景なのかを頭の中でしっかりイメージして、書くように』と指導します。『今、このとき』を逃したら、とりかえしがつかないんだ、ということを子どもに繰り返し体験させると、子どもたちの間にものすごく集中力がつくようになります」
有田さんのクラスの子は、学校から帰ると、「くたびれた」と言って寝てしまう子が少なくないそうです。それほどまでに授業中に集中して、脳を駆使しているということでしょう。
イノベーションというものは、マクロ的な視点から見ると、人間がよりよく生きたい、生き延びたいと思ったところに生まれてきました。一方で、ミクロ的な視点から見ると、脳は金食い虫の臓器ですから、飢餓状態ではうまく働きません。朝ごはんを抜いたり、寝不足だったりすると、午前中の算数の時間などは壊滅的な状態になります。また、生活に不安定要素が増えれば、長期的な視野で戦略を立てることは、どうしても難しくなります。そうしたことを考えると、日々の生活は守られながらも、工夫の余地がたっぷりある、つまり少し不便な日常であることが、子どもの成長にとっては大切だろうと思います。だって、そうでしょう。お小遣いでも、遊び道具にしても、あり余っていたら工夫する必要などありませんから。そして、何もかもが再生可能ならば、誰も、今このときに集中しようとは思わなくなりますから。
脳を耕す教育, P.210